コミュニティナースとは「そう言えば、ナースだったね」と言われる存在のこと
こんにちは、コミュニティナース育成プロジェクト事務局の齋藤です。
今回はこの育成プロジェクトを間近で見ながら、看護師ではない人の視点から見た「コミュニティナース」とはどんな存在なのかを書いてみます。
すでに終わった第4回のレポートもまだですし、先日行ってきた京都府綾部市でのフィールドワークの記事も全然進まず、息抜きに書いてみました。
一つ箸休めのようなものだと思ってご笑覧いただければと思います。
コミュニティナースとは「そう言えば」と言われる存在である
コミュニティナースとは何なのかを理解する難易度を高めている要員の一つは
「コミュニティナースらしさ」
の範囲が曖昧すぎることにあると思っています。
例えば病院の看護師であれば、ナース服を着ていてとても優しいイメージがあります。
また病院に行けば「看護師」に会うことができる、というわかりやすい居場所があります。
一方コミュニティナースは、ナース服を着ていない(たまに着ることもあるかもしれませんが)ですし、
コミュニティナースの居場所は「地域の中」なので特定の場所ではありません。
事務所のような場所はあるかもしれませんが、それは「病院」ほど明確にアイコンとして成立してはいません。
矢田さん「もしかしたら雲南の人は私が看護師だと知らないかもしれない」
僕にとって矢田さんの発言で衝撃的だったのは(たくさんありますが)
「もしかしたら雲南の人は私が看護師だと知らないかもしれない」
※矢田さんは島根県雲南市を拠点にコミュニティナースとして活動しています
と言っていたことです。
僕はこの発言に「コミュニティナースとは何か」を考えるヒントが隠されているように思います。
なぜなら僕が考えるコミュニティナースの「らしさ」とは
「そう言えば、ナースだったね」
と言われる状態にあると思うからです。
看護師らしくならないことで、逆説的に地域に溶け込んだ看護師になれる
なぜ「そう言えば、ナース」の状態がコミュニティナースらしいのか、それはコミュニティナースがケアする対象に病人以外も含まれているからです。
看護師といえば、先程も書いたように「病院にいる」人で「ナース服を着ている」人で、だいたい同じような格好(金髪2ブロックの看護師は見たことありません)をしています。
そしてその「看護師のイメージ」は強く「病気」もしくは「怪我」といった自身の状態に強く結びついています。
要は、
健康な人は看護師のお世話にならない。
というイメージがあります。
だからコミュニティナースが傷病者以外にもアプローチするためには一度この
「看護師っぽさ」
を脱ぎ捨てる必要があります。
「そう言えば、ナース」と言われるためにコミュニティナースたちは多様な生業を持つ
看護師っぽさから脱して、非傷病者にもアプローチできる状態になった看護師は一見するとナースっぽさが無いはずです。なぜならナースっぽいと、非傷病者にアプローチすることが難しいからです。
例えば、元保育園の先生のお母さんは一見するとただのお母さんですが、やたらと子どもの叱り方が上手だったり。
「やたらあのお母さん、子どもの叱り方が板についてるけど、そう言えば昔保育園の先生やってたらしいね」
本当のコミュニティナースもそんな状態なんだと思います。
「やたらあのお姉さん、健康について詳しいし薬の飲み方の説明上手だけど、そう言えばコミュニティナースだったね」
この看護師っぽさを脱するためには「看護師ではない状態の自分」を作り出す必要があります。なぜなら、何もしなければただの「看護師」だからです。
骨身にしみついた「看護師らしさ」をかき消すほどの「看護師っぽくなさ」を、コミュニティナースは持っているべきなのです。
それが島根県雲南市では例えば「まゆちゃんの宅配便」といったように「宅配サービスをする人」であったりとか、地元の特産品である「サバ」を使ったハンバーガーを開発するイベントを企画したりだとか。
こんな風に「看護師がやらなそうなこと」を生業として持つのがコミュニティナースなのだと思います。
コミュニティナースが目指すのは「地域のお地蔵さん」のような存在
コミュニティナースという存在に非常に近いと僕が思うものが日本各地にあります。それは「お地蔵さん」です。
特に町中のお地蔵さんは、地元住民が共同で掃除をしたりお供え物をしたりして維持管理しています。
そしてお地蔵さんがある意味は、人々の心の拠り所というものです。
お地蔵さんは、人によって心の拠せ方が異なります。毎日、手を合わせてお祈りする人もいれば、試験前などの重要なときだけ頼ってくる人もいます。
コミュニティナースはこの「心の拠り所」が「健康の拠り所」に置き換わった状態です。
人によっては毎日健康について相談する人がいること、別の人にとっては、体調が優れなくなった時に最初に頼るのがコミュニティナースである状態です。
そして私達のお地蔵さん、もといコミュニティナースを守るために一緒に食事をしたり、お弁当を買ったりします。
コミュニティナースの本質は「地域の日常の中」に存在すること
もちろん、コミュニティナースはお地蔵さんなので例えば大怪我をした時に「治療」をすることはできません。
それはお医者さんの役割です。
代わりにコミュニティナースは、大怪我をした時に救急車よりも先に「どうすればいいか?」を相談する相手であり、救急車が来るまでにできることを町の人に伝えたり一緒に考えたり、一緒に動いておいたりする役割です。
その「そう言えば」という時に思い出してもらえるようになるために、コミュニティナースは地域の日常の中に入り込む必要があります。この日常は、地域によって異なります。
農村と漁村では、生活スタイルもリズムも違うのでそれぞれの日常に入るための方法も異なってくるはずです。島根県雲南市で成功しているからと言って、どこに言っても宅配サービスをすればコミュニティナースになれる訳ではありません。
だからこの講座では、アクティブ・リスニングという技法を通じて「地域の日常の入口」を探すトレーニングをしてきました。
そして人好密度を高める方法や、IDCAの考え方を通じて「そう言えば、ナース」と思ってもらうための企画を考える練習をしてきました。
京都府綾部市でのフィールドワークでは、学んできた技術を使って「地元のお地蔵さん」のような立ち位置になるにはどうすればいいかを探りました。
コミュニティナースとは「そう言えば、ナースだったね」と言われる「地域のお地蔵さん」の様な存在である
コミュニティナースとは何ですか?
という質問をされたら、僕ならこう答えます。
病院の外、日常の中で地域住民の健康づくりを行い、
住民たちからは
「そう言えばあの人ナースだったから、今度ちょっと相談してみようかな。」
と言われるような心の距離にいる存在がコミュニティナースです。
次回はちゃんと第4回のレポートを紹介しますのでお楽しみに…!その次はフィールドワークの様子です!